情人节巧克力(1/3)

    情人节

    在日本情人节和巧克力的历史渊源

    1936年神户莫罗佐夫的糖果理论说,1958年巧克力潮流理论说,1960年森永的糖果理论说,1965年的伊势丹说,还有1968年的索尼广场理论说,由于这些理论说的存在,所以很难清楚的判断两者之间的关系。

    神户莫罗佐夫糖果(即现在的莫罗佐夫)理论,曾在东京发行了英文报纸,刊登了“日本广告”,就是要强调,该公司1936年2月12日的广告已经开始运行。其广告文案的主要内容为“你的情人节要(=给你爱的人)送巧克力”。

    巧克力潮流论--帕西帕尼理论说,公司于1958年二月在伊势丹新宿本店进行了以“情人节运动”为主题的重要的演说。

    还有森永的糖果论是于1960年出台了主题为“给爱人赠送巧克力”这样的新闻公告。紧接着伊势丹在1965年就开展了情人节博览会。这是给情人节普及制造契机的一个重要的学说。但是,“情人节”字样的广告却早在1956年的西武百货及松屋报纸、1959年的松坂屋报纸上刊登出来。

    索尼公司创始人盛田昭夫试图以时尚打开市场,所以就在自己公司进口货物的专卖店里尝试着做索尼广场巧克力,于是所谓的“日本情人节专门礼物”油然而生。

    但是在那种情况下,这个新形式不仅没有引起很大的反响,而且就连商品也没能销售出去。但是情人节在日本普及之后,各种各样的学说似乎也被夸大,以便于扩大对自身公司的宣传。

    总而言之,还不清楚在情人节赠送巧克力礼物其有什么内在的联系。当时刊登情人节广告的目的是为了说服大众购买礼品。就连森永学说的广告里巧克力也被定位为奖励的礼品。但是情人节的起源之一却恰恰是森永学说在广告商刊登的“巧克力赠送日”的说法,还有“寄信时会陪同巧克力一起寄送”这样的说法。进而情人节赠送巧克力不仅仅只局限于女性了。而更多的强调“有爱的日子”。

    日本社会的建立和扩张

    百货公司的各个商店都在担任着普及情人节的任务,但是还没有完全解决“1968年客流量下降峰值”的问题。由此看来,巧克力市场在日本很难建立。但是经过了几年之后,在60年代后期巧克力的销售额急剧增长。而据说情人节赠送巧克力礼品是从小学以及高年级学生中开始流行起来的。在1985年已经逐渐蔓延到家庭主妇了。

    如前所述,最初,没有与任何男性交往过的女性从中意的男性那里得到的礼品不仅仅局限于巧克力。但是情人节的普及在商业活动的促进下情况开始变得有所不同,由此也看出日本社会是一个很难接受其它元素的社会。目前,尽管普遍认为“情人节送巧克力是业界的阴谋。”但是情人节的发展却是小学生到高中生的一个主导选择的结果。谈到这样的一个结果,那么普遍所认为的商业阴谋就不能够成立了。

    一说起社会上的情人节,就立即能够想到日本特有的风情。1975年末出现了白色情人节并且巧克力作为了一种责任的代表。关于白色情人节的起源,其实是是由于日式点心店·石村万盛堂运动和全国糖果业合作社的构想。在1977年日式点心店·石村万盛堂开始了棉花糖日,以此作为对情人节赠送礼物的回礼。在1979年跟其它的点心店合作之后就采用了“白色情人节”这个名字。

    一方面根据全国糖果业合作社的主张,在1978年的联盟大会上决定开始实施“白色情人节方案”,于1980年第一次所谓的作为“爱的回应--白色情人节”活动正式展开和普及。1984年的第五轮运动中由于此活动在各地一时盛行所以礼品开始短缺,所以,同工会将白色情人节的开端定于1984年。

    附日文原文:

    日本でのバレンタインデーとチョコレートとの歴史の起源

    日本でのバレンタインデーとチョコレートとの歴史の起源については、1936年の神戸モロゾフ制菓説、1958年のメリーチョコレート説、1960年の森永制菓説、1965年の伊势丹説、1968年のソニープラザ説などがあるが、判然としない。

    それぞれの説

    神戸モロゾフ制菓(现在のモロゾフ)説は、东京で発行されていた英字新闻『ザ?ジャパン?アドバタイザー』1936年2月12日付けに同社が広告を掲载したことを重视するものである。「あなたのバレンタイン(=爱しい方)にチョコレートを赠りましょう」というコピーの広告であった。

    メリーチョコレートカムパニー説は、同社が1958年2月に伊势丹新宿本店で「バレンタインセール」というキャンペーンを行ったことを重视する説である。

    また森永制菓が1960年より「爱する人にチョコレートを赠りましょう」と新闻広告を出し、さらに伊势丹が1965年にバレンタインデーのフェアを开催し、これがバレンタインデー普及の契机となったとする説がある。しかし、「バレンタインデー」の文字がある広告が、昭和31年の西武デパートや松屋の新闻広告や、昭和34年の松坂屋の新闻広告に掲载されている。

    ソニー创业者の盛田昭夫は、1968年に自社の関连输入雑货専门店ソニープラザがチョコレートを赠ることを流行させようと试みたことをもって「日本のバレンタインデーはうちが作った」としている。

    ただいずれにしても、すぐに大きな反响があったわけではなく、商品もあまり売れなかったようである。各种の説があるが、バレンタインデーが日本社会に普及したあとに、自社宣伝のために主张されたために夸张も含まれると思われる。

    総じて昭和30年代には、バレンタインデーの赠答品はチョコレートであるという意识はまだなかった。当时のバレンタインデーの新闻広告によると、购入を勧める赠答品にチョコレートは登场しなかった。森永制菓の広告ですら、チョコレートは赠答品のおまけとして位置付けられていた。バレンタインデーの起源の一つとされる1960年の森永制菓の新闻広告には、「チョコレートを赠る日」ではなく、「チョコレートを添えて(手纸などを)赠る日」として书かれていた。バレンタインデーに赠答品を赠るのは谁かという点でも女性に限定されていなかった。ただ「爱の日」という点は强调されていた。

    日本社会への定着と展开

    デパート各店が、バレンタインデー普及に务めていたが、なかなか定着せず、1968年をピークとして客足は减少し、「日本での定着は难しい」との见方もあった。しかし、数年を経て、昭和40年代後半にチョコレートの売上が急増した。バレンタインデーにチョコレートを赠答するようになったのは、小学校高学年から高校生から始まったという。昭和60年代には主妇层にも普及した。

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